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help RSS 張炎憲台湾国史館館長講演会抄録

<<   作成日時 : 2006/07/27 00:20   >>

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台湾民主化と国家形成
国史館館長張炎憲

一、 六月政局の動揺と不安
 六月の台湾は、非常に喧しいものであった。その日々移り行く変化の様は、まさに六月の天気の如く、明日の予測さえ困難な程であった。
 国民党と親民党は、陳水扁総統の娘婿、趙建銘が台湾土地開発公司の株のインサイダー取引の容疑(以下、台開案)で拘束されたことを、陳水扁総統落としの好材料とし、立法院に罷免案を提出した。
 国民党と親民党の野党連合の攻勢は、与党民進党の闘志を奪い、分裂させるのと、陳水扁総統をその座から降ろし、民進党の求心力を無くし、馬英九の対抗馬を立てられないようにする為である。野党連合の目標は、与党の意志を瓦解させた後、野党連合の結束力をより堅固なものとし、最終的には与党の支持者に不信感を植え付け、2008年の総統選挙にて、政権を奪回するこである。
 総統を罷免する為には、現行の法律では三分の二以上の立法委員の賛成票が必要になる。目下のところ、野党連合の席数は過半数に達するものの、三分の二には程遠く、従って法律を多少なりとも知っている人間なら、総統の罷免案が決議されない事は理解できようものだが、野党連合が国民を扇動し、デモを決行する理由は、以上に挙げた計算から来るものである。
 与党支持者は元来、理想が強く、又その要求も厳しいことから、陳哲男の収賄案や、趙建銘の台開案などは、すぐさま与党と陳水扁総統への非難が起こるものである。しかしその後の野党連合の扇動や情報操作、それに追随するマスコミの姿勢、そして馬英九による『陳水扁をひどい目に遭わせてやる』という発言等、理性を欠いたそのやり方に、与党支持者達は憤慨を覚え、街へと抗議に繰り出し、本土政権の支持を高らかに表明したのである。
 六月二十七日、立法院の罷免案は、当初の予測どおり三分の二には達さず、否決された。野党連合の攻撃は思ったほどの成果をあげることはできず、馬英九の支持率は五十パーセントをきり、親民党の宋楚瑜は、倒閣の決戦路線を打ち出したものの、勢力は既に衰え、思ったほどの効果を生むことはなかった。
 六月の罷免案を争点とし、巻き起こった嵐は、様々な政治家達を支持者取り付けに尽力させたが、既に民主化の進んだ台湾社会に於いて、それは一表象に過ぎず、社会を根底から動かすことはできなかった。これは法治精神と、民主主義の信仰が、すでに台湾に根付いたことの表れである。

二、 本土と外来の争奪
 六月の政情不安は、始めこそは陳水扁総統の娘婿の道徳の欠如に端を発した野党連合の攻勢によるものであったが、その根底を追求すると、それは与党と野党の長きに渡る攻防戦であり、正確には台湾本土派と外来統治集団の攻防なのである。
 1988年1月、蒋経国総統が逝去し、李登輝が総統の座を引き継いだ後、国民党内部では既に李登輝の総統就任反対の動きが見え始めた。1990年、李登輝が総統選挙に出馬した当初、非主流派による、反李登輝抗争が巻き起こっていた。その後李登輝の総統就任中も、反対派の李登輝批判は影を薄めず、1993年には、外省人グループが国民党を離脱し、中国新党を結成し、国民党正統派を自称し、猛烈に李登輝の国民党台湾化路線を批判した。
 1945年、日本の敗戦に伴ない、国民党は台湾を接収した。1949年国民党政府は台湾に敗走し、台湾を大陸反攻の基地とした。国民党政府の台湾への撤退は、言い換えれば台湾への集団的武装移民であり、台湾人の同意も得ず、統治政権を打ち立てたのであった。国民党政府はすなわち外来政権であり、台湾人には選択の余地もなく、只それを受け入れる他、術は無かったのである。
 国民党が台湾接収後ほどなくした1947年2月、日頃の不正、不公平への抗議に端を発した、228事件が発生した。1949年以降、国民党政権に残されたのは台湾の地だけとなり、反乱鎮定動員時期の宣言や、戒厳令をしくことにより、民主自由を制圧し、反対勢力を逮捕し、大中国主義と、中国歴史文化の優越感で以って台湾の歴史文化を押さえつけ、台湾語を禁止とした。これらの措置は、台湾人を従順な国民と仕立て上げ、国民党の指導に服従させ、反共の尖兵を担わせた。
 国民党の支配は水も漏らさぬほどの徹底振りであったが、それでも台湾人による“台湾本土意識”を押さえ込むことはできずにいた。この“台湾本土意識”の力は、第一に台湾の歴史発展から来るものである。台湾は多元移民国家であり、人々は移民する際、自らの文化も持ち運んで来たが、生存する為に台湾の風土に適応する必要があり、多元的文化は次第に融和し、台湾の独自性へと繋がった。
 次に台湾は歴史上、外来政権が後を絶たず、自らの権益を奪うべく、反抗を続けた結果、それは台湾史のある種、特色ともなった。
 日本の台湾統治が始まった1895年以降、近代化の波が台湾を襲い、台湾の地に近代政治社会運動が誕生し、右派や左派等と思潮運動が台湾でも繰り広げられた。例えば議会政治制の台湾議会設置運動や、政党政治の台湾民衆党、国際共産主義運動の台湾共産党、無産階級運動の農民運動、労働者運動、台湾文化の向上を主張した台湾文化協会、新文学、新美術運動等である。様々な思想闘争が巻き起こった1920年代、そこには台湾人意識の向上と台湾人主体の思惟があった。これらの運動は日本の植民地政策を覆すことは出来なかったが、台湾人の運動の源流と礎となった。

三、 台湾人意識と民主化
 抑圧のあるところには反抗が生まれるものである。台湾人は長期にわたり、外来統治者の圧政と虐殺を受けてき、それに対し反抗でもって抵抗する術を覚えさせた。
 国民党政府の台湾撤退後、党、政、軍によって、蒋家を核心とする政権を打ち立てた。それによって台湾人は只迎合するより仕方がなくなり、勇気を奮い立たせ、世の為に立ち上がれる人間の多くは、228事件とその後続いた白色テロの時期に抹殺されたのであった。従い、1950年代、1960年代の台湾人による反対運動は非常に微力なもとなり、省議会の『党外五龍一鳳』のみが、民主の灯火を次代へと渡した。
 1960年雷震が反対党の結成を提議したものの、国民党は結党直前に『共産党のスパイを匿った』という罪をかけ逮捕し、反対党を空中分解させた。1964年彭明敏、魏廷朝、謝聡敏の三名が『台湾人民自救』を発表し、ビラも製作したのだが、それを配ることなく国民党に逮捕された。これらは国民党が台湾を全面的に掌握していた時期であり、失敗は必然であったと言えるが、これらの失敗は1970年代に起こった民主運動へと繋がっていったのであった。
 1971年、中華民国の国際連合脱退後、国民党政府が全中国を代表する唯一の主権国家であるという神話は崩壊し、政権合理化の危機に瀕すると同時に、国民党の求心力にも陰りが見え始めた。このことから、蒋介石は五期目の総統就任中、蒋経国を行政院の院長に任命し、世襲の準備を進めた。国際的な政局の変化と、蒋経国時代の来臨を迎え、日増しに募る台湾人の危機感は、新しい党外運動へと発展していった。1975年に発行された『台湾政論』は台湾人による初めての政論雑誌であり、それは新しい民主運動の波であった。1979年、国民党は美麗島事件にかこつけ、党外の台湾人エリート層を逮捕した。これにより反対勢力を一網打尽にし、台湾人の結束を瓦解させようとしたのである。しかし1980年の軍事法廷での裁判は、台湾人の美麗島グループへの同情と、政治に対する関心を起こし、台湾意識は更に熱を帯びていった。党外雑誌は続々と出版され、政治の不正を批判した。また更に台湾の主体性の確立と、歴史文化の注釈権を主張するようになった。
 民主化の波のもと、農民運動、労働者運動、女性運動、原住民運動、学生運動や文化運動等、改革運動が続々と出現し、それは1980年代の台湾社会改革の原動力となった。政治社会運動の影響を受け、台湾文化の主体性も徐々にその論点となり、論争を重ね、台湾史と台湾文学は、遂に中国史や中国文学の範疇より離脱することができ、そして独自の発展を遂げ、台湾主体の論述を確立するに至ったのである。

四、 静かなる革命と社会正義
 1980年代、急速な経済成長を遂げ、経済の奇跡を演じた台湾は、NIESの一角となった。また1990年代、無血革命の中、台湾政治は徐々に民主化の一途をたどり、政治の奇跡を演じ、それは独裁国家から自由民主国家に転じた典範ともなった。台湾は困難な状況の中、様々な奇跡を演じてきたが、それでもまだ、幾多の未解決の問題もあった。1990年代、李登輝総統は野党と手を結び、六度にわたる憲法改正を行ない、遂には万年国会を解散させ、中央民意代表を全面的に改選した。主権在民を貫徹し、台北市長、高雄市長、台湾省長を民選した。また総統の直接選挙も実施し、人民の手によって、国家の最高指導者を選べるようにした。更に反乱鎮定動員時期臨時条項を廃止し、中華人民共和国の存在を承認すると同時に、中華民国が主権独立国家であることを公示し、その統轄する地域を台湾、澎湖、金門、馬祖とした。1998年省制度を廃止し、中華民国は台湾であるとし、また1999年には、李登輝総統が、台湾と中国とは特殊な国と国の関係であるという『両国論』を発表し、台湾は中国には属していないことを高らかに宣言した。李登輝総統は十二年間の在職中、国民党を徐々に台湾化へと向かわせ、中華民国もまた、大中国から、少しずつ台湾の中華民国へと転換していった。これらの転換は、すべて血を流すことなく、平和裏に行なわれた故、“静かなる革命”と呼ばれたのである。
 静かなる革命の目を見張る成果は、台湾を更に民主化への道へと導き、国民党の独裁から抜け出したのだが、国民党統治時代の様々な行ない、例えば228事件や、白色テロの案件、林義雄家門案件、陳文政案件等は今でもその真相や元凶を見つけ出す事ができない。また、国民党体制の台湾社会に対する影響は大きく、蒋家の統治神話、経済、社会の発展の本質等、歴史解釈に於いて、未だ批判にさらされることはない。これら曖昧なものを清算しないのは、外省人たちとの衝突を避ける為の、台湾人の優しさなのかも知れないが、国民党の旧勢力は、そのことに感謝の気持ちも持たないどころか、我々の先人たちの犠牲のもと築かれた言論、思想、報道の自由などの権利を利用し、自分達の利益を守り、そして台湾の本土化路線を批判している。30歳以上の大多数の人間が自国の歴史を勉強したことがなく、先人たちが、どれほどの血を流したのかも知らず、大中国主義の教育の影響から、国民党旧勢力に左右されやすくなっている。2000年に政権交代を達成し、民主体制を確立したものの、本当の民主はまだ根をおろしてはいない。国民党時代が長すぎたため、彼ら外省人は様々な特権を握っている。また彼ら旧特権階級は、台湾人よりも一段上にいることを自認していることから、台湾を統治していたことを当然のことのように思い、またその台湾人が総統として、彼らの上に座っていることを容認できないでいるのである。自らを良民階級であると自認する優越感、そして執行権を失った喪失感、これこそが国民党旧勢力が、躍起になって政権を奪回しようとしている原因であり、政局混乱をおこす原因なのである。

五、 進行中の国家形成
 台湾は移民社会で、豊かな文化を持っているが、環太平洋の西に位置する為、その歴史記載以来、様々な列強諸国によってその権益の争奪戦が繰り広げられていた。台湾は常に、その時代の列強国に帰属し、台湾人の身柄もそれに伴なった。台湾に住む人々は、自分の運命を掌握することも出来ず、常に統治者の祭品となって、侵略されるまま身を預けた。このような悲劇が何度も繰り返された結果、無力感と逃避癖を形成した。台湾人は常に統治者に反抗しては失敗し、妥協や逃亡を繰り返した。悲しみと希望の二つの文字は、台湾人の胸に刻み込まれていたのである。
 しかし日本統治時代以来、台湾人は近代思潮の洗礼を受け、自分達の国家を形成していった。1945年に国民党に統治された後、これらの思想も抑圧されたのだが、常に民主運動を続けた。少数の国民党員によって、長期にわたってその権益を侵され続けた台湾人にとって、民主化運動とは様々な権益を追い求める為の運動でもあり、主権在民を求める運動でもある、つまり台湾の民主化の追求とは、すなわち台湾人を国家の主にするための追及なのであり、民主化の成果とは、いかに多くの台湾人を国家の主にすることができたかなのである。これこそ、台湾の民主化を安易に通常の民主化に当てはめることができない原因であり、国家形成に尽力する原因でもある。
 日本人には自分の国家があり、第二次世界大戦後、民主体制と国民主権の概念を確立させたことから、台湾人の民主の追及や、国家形成にかける願望は、理解しがたいものがあるかも知れない。
 台湾人は歴史上、統治された経験しかなく、自分の国を持った経験も無い。従ってこれから民主を追求し、国家を形成していく過程において、様々な挑戦をしていかなければならない。国内に限って言えば、先ず国民党勢力に奪われた権益を奪い返し、彼らをその座から引き摺り下ろし、民主化を推し進めなければならないが、国民党旧勢力の反撃、並びに大中国意識教育が残した負の遺産の問題がある。ナショナルアイデンティティーの確立こそが、今最も必要な課題であるが、これは短期間で解決できる問題ではなく、教育と文化の両面から、徐々に解決していく他ないであろう。一方国外に目を向けると、そこには常に中国の脅威が迫っている。彼らは常に台湾を飲み込む機会を窺い、また様々な妨害を繰り広げている。台湾は民主化に邁進するのはもちろん、更に台湾人アイデンティティーの名の下、結束を強め、国家として向上していかなくてはならない。
 ある人たちは、現在の台湾の政局や、中国経済の吸引力に憂うが、歴史発展の視点より観察すると、1990年代以後の台湾は、歴史上初めて自ら決定権を持った時代であり、また人権や、民主が最も発揚された時代でもあった。台湾は民主化した後、自らの国家を建設している真っ最中であり、2003年の『制憲』、『正名』運動はその一環である。また他にも様々な動きが進行中で、わたしはそれを“台湾運動”と呼んでいる。台湾運動とは、政治、経済から社会文化まで全面的に網羅するもので、長期にわたる台湾人の理想と熱情と努力が必要なものではあるが、それは正に今、光を帯びて、大空へ羽ばたこうとしているのである。


”中国語”
台灣民主化與國家建構
      國史館館長/張炎憲

一、六月政局的動盪不安
六月在台灣是個紛紛擾擾的日子,正像六月多變的天氣,忽涼忽熱,變幻莫測。國民黨與親民黨的泛藍集團眼看陳水扁總統的女婿趙建銘身陷台開案,有內線交易的嫌疑,認為是攻擊台灣第一家庭最好的時機,因此由國親兩黨立委向立法院提出罷免總統案,訴之表決。
國親泛藍集圖來勢洶洶,一來欲分裂泛告w營,讓忽z潰不成軍,喪失鬥志;二來欲拉下陳水扁的總統寶座,讓忽z失去領導中心,再也無人能與馬英九爭峰。藍營的近程目標是在瓦解忽z的意志,中程目標是凝結藍營支持者的向心力,遠程目標則是讓忽z支持者失去信心,以利奪回2008年的總統大選。
依據罷免總統的法律規定,在立法院需要2/3以上的立委同意才能通過罷免案。以目前國親立委在立法院的席次,雖然超過半數,卻無法達到2/3的票數。因此,只要稍懂法律的人都知道,罷免案明明無法通過,但國親卻不惜動員群眾,走上街頭示威,這無非是為了上述的如意算盤而已。
忽z支持者本來就比較具有理想性、要求較高,因此看到陳哲男的收賄案和趙建銘捲入台開案,立即產生對民進黨和陳水扁總統的指責,而失去支持的熱情。但後來看到國親的操弄,媒體的配合以及馬英九說要陳總統死的很難看等非理性的作法,反而激起憤慨而走上街頭,支持本土政權。
六月二十七日,立法院立法委員投票結果,正如早先所預測的,並沒達到2/3以上的票數,罷免案終於結束。藍營的攻擊行動沒有達到預期成果之後,馬英九的民意支持度下降至百分之五十以下。親民黨宋楚瑜雖然仍堅持倒閣的決戰路線,但已如強弓之末,無法發揮作用。
六月罷免案節奏緊湊,高潮跌起,政治人物賣力演出,以此博起支持。但台灣社會已進入民主化,罷免案所帶來的紛爭不安只是社會的表象而已,很難撼動社會基層的穩定力量,這表示法治的精神與民主的信仰已逐漸在台灣生根。

二、本土與外來的爭奪
六月的動盪不安雖然肇因於陳水扁總統女婿的道コ操守,而引起藍營的攻擊。但追根究底,這是忽z與藍營的長期對抗,或者更正確地說是本土力量與外來統治集團的爭奪。
自1988年1月,將經國總統逝世,李登輝繼任總統之後,國民黨內部即出現反對李登輝出任國民黨主席的舉動。1990年,李登輝競選總統時,國民黨內部已有反李的非主流派出面抗爭。李登輝擔任總統期間,反李聲音不絕。在1993年,國民黨外省菁英甚至出走,另組成「中國新黨」,豎起藍旗正統的大旗,猛批李登輝的國民黨台灣化路線。
1945年,日本戰敗,國民黨接收台灣。1949年國民黨政府敗退至台灣,重建政權,以台灣做為反攻的基地。國民黨政府撤退台灣,可說是集體性的武裝移民,沒經過台灣人民的同意,就建立起統治政權。因此,國民黨政府對台灣人而言是外來移入的政權,台灣人被迫只能接納,而無法自由選擇。
國民黨接收台灣不久,1947年2月,台灣人起而抗議不公不義而爆發228事件。1949年之後,國民黨退無可退,僅剩下台灣,因此不得不以動員戡亂時期和戒嚴令等手段壓制民主自由,逮捕反對人士,並以大中國意識和中國歷史文化的優越感,壓抑台灣歷史文化,禁止使用台灣話。這些舉措是在形塑台灣人成為乖順的國民,服從國民黨的領導,扮演反共的尖兵,達成反攻大陸的使命。
雖然國民黨的控制無孔不入,但無法K底摧毀台灣的本土力量。這種力量一方面來自於台灣歷史的發展。台灣是多元移民的社會,移民帶來自己的文化, 但為了生存,不得不適應台灣的風土,兩者之間的互動逐漸形成台灣的獨特性。一方面則因台灣歷史上,外來統治者更迭不斷,台灣人為了爭取權益,不得不起而反抗,反抗行動接連不斷,形構出台灣歷史的特色。
自1895年日本統治台灣之後,日本近代國家的力量進入台灣,台灣也因此產生近代的政治社會運動,舉凡世界上的左派、右派等思潮和運動,台灣都曾發生過,如主張議會政治的台灣議會設置請願運動;政黨政治的台灣民眾黨;國際共黨運動的台灣共產黨;無產階級運動的農民運動、勞工運動;提升文化的台灣文化協會、新文學、新美術運動。風起雲湧的一九二○年代造就了台灣人意識的提升和台灣人的主體性思維。這些運動雖然無法推翻日本的殖民統治,卻成為台灣人運動的源流和基礎。

三、台灣人意識與民主化
有鎮壓就會有反抗。台灣人長期以來受到外來統治者的鎮壓屠殺,自然而然會有反抗的行動。
國民黨政府退至台灣之後,以黨、政、軍、特務建立起蔣家為核心的政權,台灣人只能附從迎合,敢作敢為的人多在228事件、白色恐怖時期罹難。因此,台灣反對運動在1950年代、1960年代力量微弱,只有省議會的黨外五龍一鳳(五位男性,一位女性)維繫民主的香火。
1960年雷震倡議組織反對黨,在組黨前夕,國民黨以「知匪不報」罪名逮捕雷震,致使反對黨胎死腹中。1964年彭明敏、魏廷朝、謝聰敏等三人發表「台灣人民自救宣言」,在印好傳單,還未散發前,就被國民黨逮捕。這些事件發生在國民黨全面掌控的時期,失敗是必然的,卻點燃一九七○年代民主運動的星星之火。
1971年中華民國被趕出聯合國,國民黨政府是代表中國的唯一合法政府的神話被打破,而發生政權合理化的危機,同時國民黨的領導核心逐漸老化,因此在蔣介石續任第五任總統時,蔣經國被任命為行政院院長,並準備接班。台灣人面對國際變局和蔣經國時代的來臨,在危機意識之下,促成新生代的黨外運動。1975年《台灣政論》的發行,是台灣人第一份的政論雜誌,開啟新的民主運動的浪潮。1979年,國民黨假藉美麗島事件,逮捕黨外領導菁英,欲一舉摧毀反對勢力,瓦解台灣人力量。但1980年的美麗島大審卻喚起台灣人對受難者的同情和對時局的關心,台灣意識反而被激盪提升,黨外雜誌乘機紛紛出刊,批判政治的不公不義,進而提出台灣歷史文化的詮釋權,以確立台灣的主體性。
在政治民主化的推波助瀾下,勞工運動、農民運動、婦女運動、原住民運動、學生運動和文化運動等改革運動陸陸續續出現,成為1980年代改變台灣社會的動力。受到政治社會運動的影響,台灣文化的主體性也逐漸浮上檯面,經過論爭與爭取,台灣史與台灣文學終於脫離中國史與中國文學的範疇,而獨自發展,確立起台灣主體論述。

四、寧靜革命與社會正義
1980年代台灣因經濟急速成長,創造「經濟奇蹟」,而被喻為亞洲四小龍。
1990年代,在沒有流血的變革中,台灣政治逐漸民主化,締造「民主奇蹟」,被喻為威權獨裁轉型為民主自由國家的典範。台灣能在困境中塑造奇蹟實屬難得,但也留下許多尚未解決的問題。
1990年代,李登輝總統配合在野力量的改革要求,主導六次修憲,終結萬年國會,實施中央民意代表全面改選;貫徹主權在民的觀念,實施台北市長、高雄市長、台灣省長的民選,更進而舉行總統直接民選,由人民決定國家最高領導者:中止動員戡亂時期,承認中華人民共和國的存在,並宣示中華民國是個主權獨立的國家,統轄地域只限台灣、澎湖、金門和馬祖;1998年實施凍省、縮減地方政府層級,即中華民國等於台灣;1999年,李登輝總統提出「兩國論」,台灣與中國是特殊的國與國關係,進一步說明台灣不隸屬於中國。李登輝總統十二年任職期間,國民黨逐漸走向台灣化,中華民國也從大中國而逐漸走向台灣,轉變成為中華民國在台灣、中華民國台灣。這些轉變都是在和平運作中轉換而沒有發生流血的革命,因此被喻為「寧靜革命」。
「寧靜革命」有耀眼的成績,台灣順利地走向民主,擺脫國民黨的獨裁威權,卻也因和平轉移的方式,國民黨統治時代所造成的許多不公不義,如228事件、白色恐怖政治案件、林義雄家門血案、陳文成案件等,至今都無法找到真相與元凶。而國民黨體制對台灣社會的影響,如蔣家統治神話、經濟社會發展的本質等歷史詮釋尚未受到批判與釐清。保留這些曖昧而不予清算,也許是台灣人溫厚的美コ,為了避免族群衝突,但國民黨舊勢力集團並不就此感謝,反而利用民主運動前輩犧牲而得來的言論思想、媒體的自由和人權保障,維護自己的權益,攻擊台灣本土路線和台灣化政策。30歲以上的台灣民眾大多沒有學過台灣史,不瞭解台灣前輩為台灣所付出的血淚,反而受到大中國意識的教育,容易受到國民黨舊勢力的左右。台灣雖然在2000年已發生政黨輪替,民主體制已逐漸落實,但實質的民主內涵仍未生根。國民黨因長期執政,擁有特權,實在不甘失去政權。舊日的特權者又自認為比台灣人高一等,統治台灣是理所當然,怎麼能夠容許台灣人翻身當上總統,站在他們之上。自命高人一等的優越感和失去執政的落寞感,是國民黨舊勢力亟欲奪回政權的原因,也是造成政局混亂的所在。

五、正在進行的國家建構
台灣是個移民社會,有豐富的文化內涵。但因為位於環西太平洋的地理要衝,因此自有歷史記載以來,世界列強就在此爭奪權益。台灣的歸屬隨著國際強權的掠奪而改變,台灣人的身分也隨之更易。台灣住民反而無法掌握自己的命運,多成為強權的附屬或祭品,任人宰割。這種悲運不斷重複之後,造成台灣人無奈與逃避的性格。台灣人常常對統治者採取反抗、反抗不成則委屈妥協或自我流放,悲歌與期盼出頭天成為台灣人心底的印記。
但自日本統治時代以來,台灣人受到近代思潮的洗禮,已開始形塑自己的國家。1945年,國民黨統治台灣之後,這種想法雖然被壓抑,但民主運動卻持續不斷。民主化運動是追求多數人權益的運動,也是追求主權在民的運動。台灣長期處在國民黨少數集團的統治,大多數的民眾被剝奪權益。因此,台灣民主化的追求也是台灣人當家作主的追求。民主的成果就是多數人能夠當家作主。這是台灣民主化不能單純視為民主化的原因,也是台灣民主化必然走向國家建構的原因。
日本人有自己的國家,又在第二次世界大戰後,建立起民主體制,確立國民主權的概念,因此對台灣人追求民主,想要建立自己國家的願望,大概很難理解。
台灣人在歷史上只有被統治的經驗,沒有自己國家的經驗。因此,台灣人在追求民主、建立國家的過程中,需要面對許多挑戰。就國內而言,首先必須針對國民黨的統治,推動民主化,爭取權益。但當國民黨勢力衰退而下台,卻要面對國民黨舊勢力的反撲,以及大中國意識教育所遺留的問題,國家認同成為當今最嚴重也是最根本的問題,短時間內大概無法解決,必須靠教育和文化的型塑才能解決。就國際環境而言,當台灣逐漸民主化,社會邁向公平合理,國民能夠享受努力的成果時,卻遭遇中國的威脅干涉,處處圍阻台灣,企圖吞併台灣。台灣要擺脫中國霸權的干預,邁向獨立自主,除了確保民主之外,更須加強台灣認同,凝聚國家向心力。
有人對當今台灣政局的紛擾,與中國經濟的磁吸效用感到憂心,但如從歷史發展來觀察,一九九○年代之後是台灣唯一在歷史上有權決定自己前途的時代,也是人權、民主與法治最發揚的時代。台灣在民主化之後,正在建構自己的國家。2003年之後的「制憲」、「正名」運動就是其中的一環,正在台灣各個角落進行。我稱之為「台灣運動」。它是全面性的,從政治、經濟到社會文化,充滿台灣人的意志、理想與熱情,需要長期的努力,但曙光已現,正在飛揚答瘁B

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